アメリカの人類学者 D・W・ラプラスはその著書「ラパー・アマゾン」の中で「BC5000年頃、アマゾン本流の中流域に農業を基盤とする熱帯文化があった」と述べています。
タヒボが旧ヨーロッパ世界に紹介されたのは、あるイエズス会修道士の地方巡察記録でした。
1533年フランシスコ・ピサロがインカ帝国を征服し、16世紀半ばを過ぎるとインディオ達の反乱も落ち着き情勢も安定して来たことから、カトリック教会も本格的にキリスト教の伝道と普及に踏み出し、インカ帝国や新大陸の情勢把握のために各修道院は地方巡察使派遣をしました。
そのためタヒボがインカ帝国の文化遺産として紹介されたのです。
アマゾン文化圏とタヒボ
先程のD・W・ラプラスは、言語学調査によりアマゾン中流域の言語が北方カリブ海沿岸まで広がり、BC5000年頃の大集落跡があり、南米最古の土器が発見され、農耕生活が裏付けられ、インカ等の黄金文化はアンデス山中だけではまかなえず、アマゾン川の砂金も使われていて、アマゾンの支流や上流へ拡散されユカイモ、サツマイモ、ピーナッツ、パイナップル、タバコなどが作られていたようです。
ペルー考古学の父とされるF・C・テーヨも「アンデス東部のアマゾン低地から発生した文化あるいは集団がエクアドル南部、ボリビア、アルゼンチン北部に至る広大な範囲にひろがった。」と述べています。パレオ・インディアン(氷河期の先住民)は気候の厳しい山中より、温暖なアマゾン低地で生活していたとみられます。
古代インカ帝国が滅亡後、イエズス会の地方巡察記録により、タヒボが紹介されましたが、当時の人々の関心を引くことはありませんでした。18世紀に入りヨーロッパからの移住者が増え、インディオの伝承療法と出会い評価がなされてきましたが、西洋医学の発展と共に、忘れされてシャーマン達の伝承とされてきました。
タヒボ茶の仲間のイペー茶ブームが興る。
イペー茶には古くから優れた鎮痛効果があることが知られていて、南米のいくつかの病院では末期がん患者に行うモルヒネ医療の補助手段として使われてきました。
ところが患者さんの中に、ガンの進行が止まったり、退縮したり、あるいはがん病巣が消滅してしまった人たちが多くあらわれ、「イペー茶でがんが治る」という噂が、巷で囁かれるようになりました。
その後1960年末期の白血病の医師がカロワヨ族のインディオに治療を受け木の皮を煎じた黄色い煮汁で30日後に完治したり、アルゼンチンの医師たちが末期患者にこの方法を用い、樹木茶を投与したところ素晴らしい効果が上がり、ブラジルの新聞や雑誌はイペー茶の不思議な力をセンセーショナルに報道しました。
しかし医薬品として許可を受けていないものを人体実験に使ったという反対意見もあり、評価はまちまちでしたが、その中で米国立癌化学療法センターのJ・ハートウエル博士はイペーの内部樹皮からの抽出液が抗腫瘍作用を持つという明確な証拠を発見し、抗生物質の一つである”ラパコール”の分離に成功し、発表されました。
このイペー茶ブームは、アメリカはもとよりヨーロッパにまで及び世界中の多くの研究機関や学者たちがイペーの有用性について発表しています。
ところが純粋成分として精製されたラパコールには悪心、嘔吐、食欲不振、出血傾向などの副作用があることが分かり、1970年に米国立癌研究所はラパコールの臨床治験研究を中止しました。またフランスのパスツール研究所はラパコールがヒト大腸菌の遺伝子配列を変えたことから変異原性があるのでは、と警告しています。
これらの発表のため、多くの研究者の熱は冷めイペー茶ブームも鎮静化してしまいました。しかし多くの研究者は未知の成分で劇的な効果を持つものがあるのではないかと、研究は続けられ結局、この新成分の発見は25年後に、二人の日本人研究者に与えられることになるのでした。
日本でのタヒボの歩み。
1985年(昭和60年)クローン病再発と大腸がんに苦しんでいた、最後の相場師と言われた 畠中平八氏は偶然タヒボに出会いタヒボの奇跡を身をもって体験し健康を回復しました。
実体験から、医師に見放され病気に苦しんでいる人に一人でも多くの人にタヒボを知らせたいとの思いから「タヒボジャパン」を設立し、当時ブラジル政府の許可のもと、サンパウロ大学のW・R・アコーシ博士により厳選された「特定地域」に生育するアベラネダ種を原料とした「タヒボ」の販売を開始しました。
木屑でガンが治るなんて?と世間の嘲笑と冷笑の中、講演活動を続ける中、
その当時、京都大学薬学部の上田伸一博士が北米やアルゼンチン産のイペーを資料として天然物による制ガン作用の研究に取り組まれていた中、成果がないので研究を中断されようとしておられました。
その時、学会出席道中、たまたまタヒボジャパン社を知り、かつ資料提供を受けることとなり、京都大学研究グループとして、「タヒボ」に含まれる有効成分の分画・単離が進んでいく事になり、タヒボ研究が日本での幕開けとなりました。
国内外の学会発表が続き、京都大学薬学部の上田博士と京都府立大学生科学教室の徳田春邦博士との共同研究により、「タヒボ」に含まれる植物色素成分の一つであるナフトキノンの中から新規化合物が発見され、化学構造式が決定されました。
この新規化合物は研究者とタヒボジャパン社によってNFD(ナフトフランデイオン)と命名されました。
1994年にはNFDの構造や有用性の研究が世界的に権威のあるイギリス学会誌やドイツ学会誌に掲載され、上田・徳田、両博士による「タヒボ」の研究が世界に認められることとなったのです。
この研究によってタヒボジャパン社は1997年に日本と米国で、1998年は台湾でNFDの医薬製剤に関する物質特許を取得しました。
★ 1997年7月 日本「発癌プロモーション阻害剤」 ★ 1997年9月 米国「抗癌剤(悪性腫瘍を処置する方法)癌の予防と治療」 ★ 1998年1月 台湾「抗癌剤」
健康由来の成分が、しかも化学構造式が決定されたことによって特許を取得できたというのは世界にも例を見ないことです。ましてEUを含めて特許の三極といわれ、特に厳しい日本、米国の二地域で特許を取得したことは快挙と言わざるをえません。
1998年は研究テーマと内容について、特に厳しい基準を設けている「米国癌学会」での発表が許可されたことも特筆すべきことです。
今や多くの学会、などで多くの研究者の精力的な発表が行われています。